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いい迷惑 [へなへなコラム]

 ある橋からの景色

  某川.JPG
                          水量が少ない

 ここである生き物を発見!

     魚雷.JPG
                       雷魚さんです    模様が独特でとても美しい

 雷魚を見て思い出した事。
 以前、◯B◯の番組で 「あなたの近くにもモンスターがいる!」とか かなり視聴者を
 煽ったものをやっていた。
 タレントが池で捕獲作業を行い「捕まえた!」といって長い生き物を掴んでいた。
 テロップやナレーションで「スネークヘッドを捕獲」とか言って大騒ぎしていたが、何の
 事はない ただの雷魚だった。
 確かに指を噛まれれば大事になるが、そんな事故にあうのはルアー釣りで釣った時
 にルアーを外す場合以外にはないだろう。
 雷魚は本当に臆病な魚で人間の気配を感じれば即座に逃げる。
 普通に生活していて一般の人が雷魚に噛まれるシチュエーションが全く思い浮かば
 ない。
 又、ブラックバスとは違い「雷魚が増えすぎて困った」という話も聞いた事がない。
 見た目やその食性だけでモンスター扱いして 雷魚の事を何もしらない視聴者に誤っ
 たイメージを植えつける放送局。
 視聴率が欲しいからといってこういう番組はどーなんかねぇ?
 まぁ、雷魚にしてみれば 人間が近づいてくれない方が幸せだろうが、中には「怪物征
 伐!」とかいって無駄に捕獲して殺してしまう馬鹿がいるかもしれない。
 
 ホントに最近のバラエティ番組ってヤラセが多くてツマラン。
 騒ぐだけのタレントなんて出ない「野生の王国」みたいなものをやってくれないかねぇ。
 どんなジャンルの番組こにでも出没する大手芸能事務所や宗教タレントで作られた番
 組なんて全く見る気がしない。
 そんな番組を見て大喜びできるほど脳天気なほうが現代日本においてはある意味で
 「幸せ」かもしれん。



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いち広島県民のぼやき [へなへなコラム]

 日曜日の広島県知事選挙に広島県在住の皆様は行かれましたでしょうか?
 私は行ってません。

 清廉潔白の人だと思っていた現知事が立候補しない今回の選挙、新人ばかりという事で知名度
 の高い人はいませんでした(私が知らないだけ?)
 誰かに投票された有権者の皆様はどういった基準で一票を投じたのでしょうか?
 ちゃんと演説や政策を聞きましたか?
 見た目で選んではいませんか?
 中には消去法で最後に残った一人に投票した方もいるでしょう。
 私はラジオで各候補者のインタビューを聞いた上で消去法により全員が消えました。
 よって県知事選挙には行っていません。
 
 今日の民法ラジオで解説員の方とパーソナリティーが今回の選挙の事について 話をしていたの
 を聞いてビックリしました。
 このお二人のお話は実に的を射ており 私の知らない事をズバズバと指摘していました。
 無所属を売りにしていた複数の候補者は 某党の後ろ盾があっての立候補だったのです。
 ラジオを聞いていた方の多くは「はぁ?」と思ったんじゃなかったですかね・・・
 「しがらみの無い県政」って・・・ 聞いて呆れました。
 この二人の県知事選挙総括の後に当選された新県知事が生で出演されておられましたが、明ら
 かに「無所属とは名ばかり」という事実を公共の電波に乗せられた事により不快感をあらわにした
 しゃべり方だったように聞こえました。
 新知事も官僚出身なので 結局はシガラミだらけで 藤田県政と変わらない気がするのです。
 最近は「元官僚」というのはイメージ的にハンデになっているような気がします。
 しかし、それでも選挙で勝った以上は私なんぞがギャフンという程の素晴らしい方策で広島県を良
 い方向に導いてもらいたいものです。
 こうして見ると橋元知事は凄いと思えます。(地鶏知事は論外)
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運命 [へなへなコラム]

 毎年、8月6日くらいになると思う事がある。

 もし、あの爆弾が広島市に落ちなかったら 現在の私はどうなっていたのだろうか?という事。

 私は呉で生まれた。
 広島市からは 程近い場所だ。 祖母や叔母の話では 呉市からも あのキノコ雲はハッキリと見えたそうである。
 被爆地が近隣であるが故に影響も確実にある。

 もし、あの爆弾が広島市に落ちていなかったら 現在の私は ここでこうやってブログの記事なぞを書いていたのだろうか?
 あの爆弾で命を失われた方の子孫と関わっていて、もしかしたら その子孫が女性ならば結婚していたかもしれないし、男性な
 らば この瞬間 一緒に飲みに行っているのかもしれない。
 少なからず 今までの「出会った人」には影響が出ているのだ。 その中には 会わなければ良かった人もいただろうし、出会う
 事で 今よりももっと良い人生をもたらしてくれる人もいたかもしれない。
 一発の爆弾が落とした事で変わってしまった運命を不思議に思う。

 しかし、あの爆弾で命を失われなかった方の子孫と父や母が結婚していた場合に 当然、私はこの世に生を受けなかったワケ
 であり 当然 こうやってパソコンを打っている自分も居なかった事になる。 可能性はゼロでは無いのだ。
 そう思うと複雑な心境ではあるが、ただ一つ言える事。
 「ノー モア ヒロシマ・ノー モア ナガサキ」
 馬鹿げた争いで多くの人の命を奪い去り運命を変えてしまう卑劣な兵器を使っては(わせては)ならない。
 使って良い兵器など 何一つ無い。

 「平和」 いつの世にも望まれる 崇高な言葉。 しかし、地球上でそれが満たされる事は無い。
 ならば、せめて私の目の届く場所だけでも そうあって欲しいと切に思う。



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作品の評価 [へなへなコラム]

先日のコラムの続きを書いてみる。
自分の作った作品を どう評価されるのか?は何かを作る者として最も気になる事であろうと思う。 殆どの人はその道の識者及び玄人に判断を委ねるだろう。 しかし、敢えて私は全くの素人 もしくは作ったモノに対して関心の無い人に意見を求めた方が良いと思ったりする。 何故か?それは、ズバリ「良い」「悪い」の二択で判断してくれるからだ。識者に「う~ん・・・君の作品は40点だね」と言われるよりも、素人に「この作品は嫌い」とか言われた方がサッパリして良い(私の場合) 一部の濃く狭い範囲で評価される事よりも 皆が見て「良い」とされる作品を作っていきたい。

本題はここまで。 ここからは駄文を重ねます。各項目に関連性は薄いです。

昔の芸術家は不遇だったなぁ。 優れた作品を作っても当時の風潮などで評価されない事も多く、貧乏に喘ぎ、冷遇されていた人が多い。あの世に行ってから評価が上がってもどうにもならん。芸術家が生きている時に その高い評価を下してあげれば良かったのに・・・と思う事が多々ある。最悪なのは、有名、有能な芸術家でも亡くならないと評価(ズバリ、作品の金銭評価額)が上がらないというシステムだ。 おかしすぎるのではないだろうか? 優れた芸術家には存命中でも、評価される作品にはもっと対価を支払っても良さそうなものだが。 (亡くなったら価値が上がると考えて先行投資的に作品を買う不埒な輩も多かろう) 不思議な構造だな。その分野で本当に才能のある者も実は多くの者が途中でやめているのではないだろうか?

ちょっと話が変わりますが、某局の某鑑定番組をみて「?」と思う事が多い。ある碗が千万単位の評価が付いた事がある。これこそ正に、「見る人が見れば素晴らしい作品」の頂点だったのだろう。しかし、「見る人」の鑑定能力を保有している人間はどれ位 存在しているのだろうか?10万人に1人?いや、100万人に1人?私が見ると その「碗」の価値はサッパリ分からない。ただの古くて黒い器だ。 いや、むしろ百均で売っている陶器の方が使い勝手も良くて見た目も良いとさえ鑑定結果が出る前は思った。いや、器の性能としての観点から見るとプラスチックの器の方が 軽く、漏れず、割れずで良い事ずくめの性能だろう。多分、99.999%の人は「一流鑑定士のお墨付き」が無ければ そこらへんの碗と一緒としか思わないではないか?だとしたら、この「名碗」の存在価値は?と疑問に思う。
食材を盛るだけなら それこそ「紙の器」でも事足りる。しかし、名人が芸術へと昇華させた「器」は紙の器と比べると「食材を盛って使用する」という観点から見て一体何が違うのだろうか?それは、多分「目で味わう」という点だけだろう。そういう点では「一流鑑定士」は ある意味目のグルメと言える。普通の人には感じる事の出来ない味だ。 極々、限られた人だけの世界。一般人には分からない。
しかし、どういう基準でその器に「貨幣価値」を付けているのだろうか? まともに考えると謎である。それこそ もう、鑑定士の言い値だろう。
私は骨董などは死んでもやるまい。
出品者が一千万で買った陶器が千円と鑑定された時の落胆たるや悲惨なものだ。 自分の愛した陶器は一千万と思い込んでいた陶器であって千円と評価された陶器では無い。 千円と評価された途端にその陶器はクズに変貌を遂げる。自称、骨董収集家 愚の骨頂。私の思う骨董収集の心得とは 「欲しいと思ったモノを自分が付けた買っても後悔しない値段で手に入れる」 という事になる。本来、芸術品に資産的価値を求める事はナンセンスなのだ。
 ちなみに「鑑定士」とは価値を判断する人であり、「鑑別士」とは真贋を判断する人だそうだ。

話が変な方向に行ってしまったが、ここで私が言いたい事は 評価する作品の価値は誰かに与えられた知識での評価では無く 予備知識無しの自分で感じた評価をモノサシにして頂きたいと思う。 
何かを欲しいと考えたなら、決して難しい事では無い。自分の感性が欲したモノだけ買えって事。
私から言わせて頂ければ、1千万円で手に入れた陶器よりも、自分が土を捏ねて、形を作り、釉薬をかけて焼いた器のほうが多少 曲がっていても自分での精神的価値は高いだろう。高価な陶器を所有している人間はそれを資産としか見ていない。芸術品も株券と同レベルなのだ。本来の用途として使われない器の惨めな事・・・。いや、むしろそれを作った制作者が憐れなのだ。

あ、それと私が思った事をひとつ。 今、高い評価が付いている焼き物やブリキのオモチャなどは未来永劫 このままの価値があると思いますか?今の若者が大人になって焼き物に興味を持つ?ましてや、私(39歳)でもリアルタイムで知らない鉄腕アトムのブリキのオモチャに今の子供達が関心を示すだろうか? 答えはNOだ。今の子供達が大人になったら これらのモノは価値が無くなる。ただでさえ、あんなブリキのオモチャが50万円だのする事に疑問を持っている(これは鑑定士が自己資産の価値を下げない為に高く評価しているのでは?の疑念の声もある)のに これから先の評価を考えると・・・。そんなモノを買うのなら老後を考えて蓄財していた方が良いのではないだろうか。 「ブリキのアトム」は老化した自分を助けてはくれない。
それよりも、自分の永く付き合える趣味を持つ事の方が随分とましだろう。コレクションも趣味ではあるが「自分を高めてはくれない」と思う。
といいつつ長くなったので 又、次回に続くかも・・・。
        
か~ちゃんが作ったこれらの陶器も中○誠之助先生が「50万円!」と言えば、その値段で買う人がいるのだろうか?
                                              いや、いね~な。 イイ仕事してますか?


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へなへなナコラム : そうだったのか!! [へなへなコラム]

先日、アップしたこの 記事

ちなみにその時の画像

   あの記事では、「稲と彼岸花は対極の植物だと思う」 と書いた。
   その時は、漠然と感じた事をかいたのだが 後ほど何でそう考え
   たのか熟考してみた。 ←ヒマ人
   それで、閃いた事が三点あった。
   まず、一つ目は稲は食用になる。一方、彼岸花は食用どころか
    巷では毒性があると言われている点。
   二つ目は、稲は自生していない (多分、殆どが人の手による栽
   培植物) 彼岸花は殆ど、自生している植物。
   三つ目が自分の中で一番思い当たる事だった。
   その違和感の最大の原因は そのフォルム(形状) にあるので
   はないだろうか?
   彼岸花は咲く期間はかなり短い。当然、台風などの風による「倒
   れる、抜ける」などの被害にあう確率は少ないモノと思われる。
   よって、あの 何も考えていない(彼岸花に失礼か?)重心の高い
   形状でも問題は無いだろう。
   しかし、稲はどうだろう。5~6月に苗を植えて10月までの長期間
   地面に立っていなければならない。 と、いう事は台風による被害
   を考えなければならない。 ここで、あの稲の形状を考えると流線型の風を♪右から左に受け流す~♪と、 空力的に
   「自らのダメージを受け難い形状」になっているではないか! 稲って凄い!! 稲に限らず、頭脳を持たない植物が
   その形状を自分の有利なように進化させている。 何とも不思議な話ではないだろうか?

 何をいい歳をして・・・ と思われる方もあろうかと思いますが、「自然」に目を向けると 面白い事・不思議な事がゴマンとある。

 本日の結論  新米食いたい。

 (注)この記事は 私の推測及び 思い込みにより書いております。よって、根拠など皆無ですので 真実を知りたい方はご自
 分で調べて下さいませ。


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作る事を楽しむという事 [へなへなコラム]

 モノを「産み出す事」は楽しい。 
 
(注)敢えて「産み出す」 と表現する。自分の人生の一部の時間を割いて創り出したモノは 自分の一部であり分身と考えているからだ。例えて言うならば「子供」に近いものかもしれない。

 それは、私のような立体物を造る者や、絵画、陶芸、デザインワーク、ハンドメイド(雑貨etc)他の制作をする人 全てに言える事ではないだろうか。
 当然、人によって「産み出す」という作業のスタンスは変わってくる。私の様に趣味の一環としての人(大多数がそうだろう)や、職業として それ を行っている人もおられる。
 「趣味と実益を兼ねる」という考え方がある。私もそれで食っていけたら何と素晴らしい事あろう と考えた事もある。おそらく、前述した制作を生業とする人の殆どが「趣味」から「職業」として発展、変更されたのではないだろうか? 「趣味」から「職業」へと変更する事については相当の覚悟が必要だろう。趣味として「楽しむ」を主体としていた事から 職業で「食って行く」へと変わる事で途端に苦役になる事もあろうかと思う。例えば 締め切り、アイデアの枯渇、制作物を売るとすれば販売不振などと 色々と懸念事項も多い。それを承知でプロとして やって行ける人は それはもう、天性の素質があるのだろう。技術面、精神面、は当然としてセルフプロデュース能力、経営技術なども必要とされる。

 作る事とは関係が無いが、私が最初に「プロ」という人間を意識したのは こんなエピソードだ。
 私は20代半ばまでボクシングを齧った事がある。理由は多くの若者と同じでケンカの延長で強くなる事(いわば趣味のようなモノ)だったがジムの中でもプロを目指すモノ及びライセンスを取得しているボクサーは、我々とは全然違っていた。体調管理、メンタル面のケアなど 端から見るとおよそ楽しい事では無い。心構えが全然違っていた。とにかく自分に厳しいのだ。トレーナーから要求される事も多い。
「プロ」に求められる全てが我々とは異質の事であった。

 「プロ」というものは自分の技術を評価してもらって、人様から対価を頂く事である。よって、泣き言は通用しない世界なのだ。最初に言った「モノを産み出す事は楽しい」という事。プロで在り続けながらも楽しく制作をされている方は本物の天才なんだと思う。尊敬に値する。

 しかし、世間にはどちらにも属さない「セミプロ」という考え方もある。趣味から職業へ転身する過渡期なんだろうと思う。この時期は人によっては一番悩ましい時であろうか?自分の才能を推し量り、自分の評価に耳を傾ける。将来を見通してプロとしてやって行けると自信のある者のみが次のステップに踏み出せる。しかし、割り切ってしまえば「セミプロ」というモノは実に心地よいスタンスではないだろうか。重い責任は無いし、制作以外の自分の為の自由な時間もある。アイデアが尽きても時間的余裕があるのでアイデアを補充する事も出来るのだ。 「セミプロ」は創り出す事の楽しさをスポイルされる事がプロと違って殆ど「無い」と言える。
最も多感な この時期に「制作者として成長」する人は多いであろう。(逆の事も又 言えるが・・・)
私見であるが、この段階でお悩みの方は その制作する事の「スキル」がかなり高いレベルにあると断言出来る。例えば、人から制作の依頼を受けれるとか、委託販売などで「商品」として売る事の出来るレベル。 以上の事がこなせれば 自分に自信を持って良いのではないだろうか?

 私は高い技術も才能も無い。割り切って趣味として何かを作っている分には楽しくてしょうがないのだ。ここだけの話、実は完成させる事よりも作っている途中が私にとってのゴールデンタイムなのだ。制作をしていると必ず何かしらの「壁」にぶち当たる。この壁を乗り越えるか、ぶち壊す事が最高の快感だ。
 
 以前の模型製作では1/100サイズの
シャベル、ツルハシなどの道具や、ドラム缶などを作った事もある。(無いから作った) あ、その時は コレ を作ったんです。自他共に認めるロボット好きですから・・・。

 資料をリサーチする為に自転車に乗って色んな所をウロチョロとしたのだが、通常は目にもとめない事も自発的に見る事で随分と違って興味深く見えた。
 「完成」させる事だけが目的では無く、「プロセス」を楽しむ事でモノを作る事が更に楽しくなる。と思うのだが・・・

 気が向いたら続きます。 2007/10/10 18:50加筆修正


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ヘナヘナコラム : デキルコ ノ シンジツ [へなへなコラム]

私は以前 運営していたブログでコラムなんて書いてました。 そのブログは もう、跡形もなく消去したのですが せっかく書いたコラムを そのまま消してしますのも どうかと思いますので前ブログより再掲載します。

「この子は、やればデキる子です。」 学期末に先生が三者懇談で保護者に言う、よく聞くセリフである。
 この言葉は、聞く人の捉え方によって意味の変わる不思議な言葉だ。                                                                 
 この言葉、どう受け取りますか?概ねの保護者は 「そうか!ウチの子供はやれば出来るんだ」 と安堵すると思いますがいかがでしょうか? 家に帰って、子供に「おまえはやれば出来るのに、何でやらないんだ!」と叱ったとしても、子供がデキないのは子供の責任ばかりではありません。
 この言葉の裏側にある真実は、ズバリ こうではないでしょうか? 
「あなたのお子様は、能力があってもやらない子ですよ。」 
 「この子はやれば、デキる子」 と意味は同じなのですが、こう言われれば話にカドがたちますので、先生はオブラートにくるんで 「やればデキる子」 とあえて言うのではないでしょうか?
 もちろん、この世の中で頑張っても、少しも前進しない人間なんていないのですから 「やればデキる子」 という言葉自体、本当は意味は無いのかもしれません。
 むしろ 「やればデキる子」 の保護者の方が本人よりも危機感を感じていないといけないと思うし、子供にやらせる指導、環境を与えてやらなければいけないでしょう。
 先生からの謎かけの正答に辿りついた保護者のみが、今後の我が子の能力を成長させる為の見えないカギを得た事になるんではないでしょうか。
 その他にも、このコラムを見ているあなたが会社で「おまえはやればデキる社員なんだから・・・」と上司に言われたとすれば、真実は 「なんで、仕事をちゃんとやらないんだ コンチクショウ!」 と思われていると考えて、以後の会社での行動を改めた方が良いのかもしれません。
 言われる人はいないとは思いますが 何より怖い言葉は 「あなたは、頑張っても、もう成長する事が出来ません。」 それは、あなたの能力を見限られているのですから 全く期待されていないと判断せざるを得ません。 上司、指導者に一番、言われたくない言葉です。

 「オレはやればデキる」 と自分に言い聞かせる分には素晴らしい効果があるのですが、他人から言われると全く逆の意味を成す言葉の一つなのではないでしょうか?
                            
「ヤレバデキル」 フシギナコトバ


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